松文館裁判 意見証人意見書 2003(避難所)

※元記事はミヤダイ.com.ブログ。一部の方が、403エラーで見られないとこことなので暫定的に下記にコピー(図表はもとから入っていません)。

 

松文館裁判 意見証人意見書

投稿者:charlie
投稿日時:2003-05-03 - 15:26:00
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4月30日に、東京地裁で行われている裁判「平成14年(刑わ)第3618号 わいせつ図画販売被告事件」(松文館裁判松文館のホームページhttp://www.shobunkan.com/)の意見証人として、出廷しました。そのときに提出した意見書を以下に掲載します。ただし、グラフや表が載せられませんので、そこは欠落になりますが、あしからず。


意見書     2003年4月30日 東京都立大学人文学部助教授 宮台真司

【猥褻に関わる論点/悪影響論に関わる論点】
■近代裁判において、プライバシー侵害(自己情報制御権の侵害)と名誉毀損(尊厳を保つ権利の侵害)が混同されがちなのと似て1、猥褻性の問題と、青少年への悪影響(一部の性的メディアが間違った性行動を誘発する)という行政上の問題が混同される。
■猥褻な行為については、刑法のいわゆる猥褻三法(刑法174~176条)に然るべき定義がある一方、青少年に悪影響を与える恐れのあるメディアを規制するとの法理をもった法律は2、青少年有害社会環境基本法案上程の動きがあるとはいえ、まだ存在しない3。
■ゆえに本裁判において本来論争されるべきなのは猥褻概念をめぐる諸論点であり、ある種のメディアが青少年に悪影響を与えるかどうかは主要な論点ではありえない。それを承知の上でこの意見書では、猥褻に関わる論点と、悪影響に関わる論点を提示する。

第一部:猥褻に関わる論点についての意見
【習俗としての猥褻/法的規定としての猥褻】
■猥褻について論じる場合、橋爪大三郎の言葉を使えば4、「法的規定としての猥褻観念」と「習俗としての猥褻観念」を区別する必要がある。さもなければ、そもそも猥褻なものが法的に規定・規制されることの、社会的な意味を、適切に評価できない。
■猥褻観念は、法律で規定される以前から、習俗として存在する。言い換えれば、今まで生き残ってきた社会は必ず猥褻の観念を持つ5。結論から言えば、習俗としての猥褻観念は、社会関係や役割関係の中に性的なものが入り込むことを抑止する機能がある。
■哺乳類で発情期のないのは齧歯類と人類だけである。齧歯類は捕食されやすいので、絶えず繁殖し続けることで種を存続させる戦略をとる。そのために性欲中枢が肥大し、発情期が存在しない。人類も、理由は定かでないが、他の類人猿とは違って発情期がない。
■発情期がないという意味は、いつでもどこでも性交しうる体制にあるということである。だから、もし猥褻観念によって性的なものを隔離する社会制度がなければ、あらゆる社会関係が、いつなんどき性的なものに変質しないとも限らないことになる。
■そのような人類社会が過去に一つもなかったかどうかは定かではない。そういう社会がかつて存在したとしても、非性的な社会関係や役割関係を、性的な力から保護できなかった社会は、少なくとも有史以降はすべて淘汰され、今日に至ったのだと思われる。

【法的規定としての猥褻が優越してきた理由】
■今日ではセクハラ観念が典型的だが、性的な力が働いてはいけない社会関係や役割関係があるということは法以前的な社会通念だ。性的な力から保護されている社会関係・役割関係とは、教師と生徒、公共交通で乗り合わせた人々、医者と患者、上司と部下など。
■こうした法以前的な社会習俗を、保護する機能をもった法的規定としての猥褻観念は、近代国家ならどこにでも存在する6。ただし、近代法の本旨から言えば、習俗ないし道徳だから保護されるべきだとするのでは、「法と道徳の分離」の大原則に抵触する。
■合理的な法理としては、意思に反した体験や行為を強制されない権利を主張する市民の振舞いに、引いた場所から見ると習俗や道徳が浸透しており、従って、市民の権利主張を認めることが、結果として習俗や道徳を保護する機能を果たすことになるという他ない。
■ところが現実の法制史をみると、日本や韓国・中国のように近代化を急いだ後発国が、習俗を無視した厳しい猥褻規制を設けて来た。理由を一口で言えば、統治権力の普遍性を担保するため。言い換えれば「国民」を作り上げる「国民化」という目標のためである。
国民国家の成立以前の各地域にはローカルな性的習俗がある。統治権力が近代国家としての体裁を整えようとするとき、不均質な習俗は邪魔になる。だから猥褻法制によって邪魔を取り除き、同時に、習俗よりも上位に国家が位置するとのシンボリズムを貫徹する。
■加えて日本の場合、明治期は不平等条約を撤廃するためにちゃんと近代化を遂げたとのアリバイを示す必要があり7、戦後は東京オリンピック誘致を前に戦後復興を遂げたとのアリバイを示す必要があり、対外的な見かけをコントロールするという政策目標もあった。
■国民化の政策目標も、近代化や戦後復興の見かけを制御するという政策目標も疾うに達した今、「習俗としての猥褻観念」を上回る「法的規定としての猥褻観念」を維持する必要は既になく、むしろ「法と道徳の分離」への前近代的無理解を内外に晒すことになろう。

【法と道徳の分離】
■法と道徳の分離についての原型的な観念は、歴史学的な常識に従えば、西ローマ帝国下で叙任権闘争などを経て確立された「聖俗二元論」に由来する。すなわち、内面ないし良心の主催者であるローマ教皇と、行為ないし外面の主催者である国王との、分離だ。8
■しかし、今日から振り返ると、主として1970年代の先進各国で起こった「公共の福祉」概念の学説的な変化を弁えることが重要である。一口でいえば「人権外在説」から「人権内在説」への転換だ。この転換は、例えば主要先進国における売買春合法化に繋がった。
■近代憲法は例外なく「公共の福祉」が人権への制約事由になりうることを唱う。この「公共の福祉」を、諸個人の人権の外部にある「良き秩序の利益」と考える立場が「人権外在説」、諸個人間の人権の両立可能性の問題に過ぎないと考えるのが「人権内在説」だ。
■こうした主流学説の転換が、米国等を除く主要先進国で、売買春合法化に繋がる理由は見やすい。「人権内在説」に従えば、売買春の規制は、人身拘束や人身売買などの人権侵害を理由にするべきで、売買春規制を目的とした特別な立法を待たずに規制しうる。
■対照的に「公共の福祉」の「人権外在説」に従えば、侵害される人権がなくても「良き秩序」に反するかどで売買春を取り締まれる9。結論的には、売買春規制の保護法益の、「秩序の利益」(公序良俗)から「個人の利益」(人権)への移行が、規制撤廃に繋がった。

【学説転換の社会学的背景】
■こうした政策科学(公共政策論)における学説転換の、社会学的背景を理解しておくことが大切になる。背景を一口で言えば、成熟社会化──すなわち近代過渡期から近代成熟期への経済的社会段階の転換──に伴う、価値観の多様化・流動化である。
■近代過渡期とは、第二次産業(製造業)中心の社会段階で、物の豊かさ(貧しさからの脱却)が国民的な目標となる時代。専業主婦を中心とする核家族は都市労働者支援のためのシステムで、近代的学校も良質な労働力を安価に素早く調達するシステムだった。
■だから近代過渡期には何が「良き家族」なのか、何が「良き学校」なのかについての合意が得やすい。労働者を精神的にも物理的にもよく支える家族が「良き家族」であり、優秀な労働者を数多く生み出す学校が「良き学校」であることに、疑いがなかった。
■ところが70年前後に先進各国は近代成熟期を迎え、3S(炊飯器・掃除機・洗濯機)や3C(カー・クーラー・カラーテレビ)のごとき耐久消費財が一巡。物の豊かさを達成後、何が幸いなのか、良きことなのかは人それぞれとなり、「心の時代」と呼ばれ始める。
■詳しくは拙著に譲るが10、先進国では何が「良き家族・学校」なのかについての従前の合意に疑いが差し挟まれ始める。何が自分にとっての幸いなのかを模索する活動が重要化し、この模索活動が互いに侵害し合わぬようにすることが公共政策論的に重要になる。
■ちなみにこの理路は、複雑な成熟社会(近代成熟期の社会)においてNPOやNGO活動の活性化を含めた分権化や民権化が重要化する理由と、同じ構造をもつ。複雑な成熟社会では、何が公共性なのか、公益なのかを、国が独占的に判断することは難しくなる。
■難しくなるとの意味は、独占的な判断が合意を獲得することが難しいので、特定者にのみに資する可能性が高いこと、ならびに、帰結の見通しがたさゆえに、独占的に判断した結果もたらされる失敗で官僚組織自体が危機に晒される可能性が高まること、を指す。

【猥褻概念からゾーニング概念へ】
■学説転換にも裏付けられたこうした政策転換は、売買春法制のみならず、猥褻規制の政策目標にも大きな変化をもたらす。すなわち、道徳的に「良き秩序」の紊乱ではなく、ゾーニングの攪乱をチェックする方向に、軸足が移ってきたのである。
ゾーニングとは、日本語でいえば「空間分割」のこと。具体的には「見たくないものを見ないで済む権利」(「不意打ちを食らわない権利」とも言う)を保護するために、性的メディアへのアクセシビリティ(接近可能性)を空間的に制約することを言う。
■「見たくないものを見ないで済む権利」は、憲法的には幸福追求権の一種に数えられる。ここでのポイントは、成熟社会では各個人の性的良心(道徳)が多様なので、何を見たくないかが諸個人ごとに大きく異なるだろうことを、想定しているということだ。
■従って、空間的な識別子を設けることで、不用意に性的な空間(性的メディアが陳列された空間や性的行為がなされる空間)に闖入することがないようにするのが合理的となる。これがゾーニングで、Vチップ導入に伴う事前アナウンスメントも等価な目的をもつ。

【猥褻三法への社会学的評価】
■こうした政策転換の流れから翻って見たとき、先に見たような事情を背景に明治時代に制定された猥褻三法(174条~176条)は今日どう評価されるべきだろうか。猥褻に関わる論点についての意見を締めくくるにあたって、このことについて述べておきたい。
■「公然猥褻の行為」を取締る174条は、ストリップ劇場でのまな板ショーなどに適用されてきた。だがこうした適用は問題を含む。一つは、ストリップ劇場での行為が「見たくないものを見ないで済む権利」を侵すと言えないからだ(もう一つは、175条で後述)。
■公共の場所で性交に及ぶ場合と異なり、人が気が付いたらストリップ劇場にいて「不意打ちを食らう」ということは基本的にありえない。むろん劇場や看板の存在自体が「見たくないものを見ないで済む権利」を侵害することがあるが、立地規制で対処できる。
■「猥褻物頒布等」を取締る175条は、図画の販売などに適用されてきた。三法の中では本件に最も関連するが、社会学的には問題がある。それは「猥褻物」なる実体が存在する(174条で言えば「猥褻行為」なる実体が存在する)との法的構成に関わる。
■どの社会にも例外なく存在する「習俗としての猥褻概念」は、非性的な社会関係が、性的な力に脅かされないように隔離する機能をもつ。性的であってはならない場所に、性的なものが闖入したときに、人は猥褻感を抱き、脅かされるということだ。
■こうした習俗から言えば、夫婦の性的行為が期待される夜の寝室で展開される性的行為は、たとえ性欲を刺激し合うものでも猥褻ではない。客たちが性的行為が展開すると予想するストリップ小屋の中で性的行為が展開することも、同じ理由で猥褻ではない。
■しかし、この同じ習俗によって、学校や教会の隣りにストリップ小屋が立地することは猥褻だと見なされる。「見たくないものを見ないで済む権利」を主張する者がストリップ小屋のゾーニングを求めることは、こうした習俗に照らして一般的に理解できる。
■習俗からすれば、それが公然猥褻の行為か否か、それが猥褻物か否かは、性的なものの存在が一般に期待されない空間内にあるかどうかで決まる。法的規制が習俗を上回るべき理由が見いだせない以上(前述)、174条同様175条も立地規制やゾーニング規制に還元されるべきである。
■これらと比べると「強制猥褻」を取締る176条は異質で、意思に反した行為を暴力的に強制されない権利として、社会学的にもストレートに是認しうる。以上の理路から見て、例えば「猥褻な漫画」なる実体が存在するとの主張は、社会学的には時代錯誤である。
                                (第一部・以上)


第二部:悪影響論に関する論点についての意見

【強力効果説から限定効果説へ】
■暴力的なメディアや性的なメディアが、受け手を暴力的にしたり性的にしたりするという「強力効果説」の発想は、20世紀の初頭に新聞・雑誌・ラジオが大衆化して以降、必ずしも実証を書いたまま、いわば大衆的な通念として流通してきた。今もそうである。
■ところが20世紀の半ばにジョセフ・クラッパーが登場し、数多くの実証的な社会調査を積み重ねた上、「限定効果説」を提唱し、学会の主流学説となった。メディアの(悪)影響を実証的に研究するアプローチ(効果研究)自体も、彼の実証研究を嚆矢としている。
■「限定効果説」とは、暴力的なメディアに接触した子供が暴力的に育つということはなく、たとえそのように見える場合も、実際には「選択性メカニズム」と「対人ネットワーク」というパラメータ(外性変数)が利いている、とする立場である。
■「選択性メカニズム」とは、例えば、もともと暴力的な素質を持った子供だけが、メディアに描かれた暴力に選択的に反応することを言う。逆に言えば、暴力的な素質を持たない子供は、メディアに描かれた暴力に影響を受けないということだ。
■「選択性メカニズム」はしばしば火薬と引金の比喩を用いて語られる。「火薬が充填」されているなら、「引金を引け」ば、弾が出る。もともとある暴力的な素質が「火薬の充填」に、メディアに接触することが「引き金を引く」ことに相当する。
■「選択性メカニズム」の実証は、メディア悪影響論を否定するものだと一般に理解されている。しかし、メディアが「引金を引く」だけなのだとしても、悪影響は悪影響ではないかとする反論が予想される。それに対し、クラッパーはこのように警告する11。
■火薬が充填されていれば、メディアが引金を引かなくても、いずれ別の要因が引金を引く。だから、メディアを除去することは何の解決にもならない。そればかりか、なぜ火薬が充填されたのかという真の問題を覆い隠す「気休め」に過ぎない、と。

【メディア内容論から受容環境論へ】
■「限定効果説」という場合、一般には今紹介した「選択性メカニズム」の議論が参照される。だがそれとは別に、クラッパーは「対人ネットワーク」というパラメータの重要性を説いている。受け手同士の繋がりがメディアの効果を方向づけるということだ。
■具体的には、例えば、誰と一緒にテレビを見るかによって影響のあり方が異なることを言う。一般に、親しい者とコミュニケーションしながらテレビを見たり、テレビを見た後に親しい者とコミュニケーションする場合、影響力が間接化されることが分かっている。
■このことは効果研究の蓄積において繰り返し実証されてきた。最も有名なものはラザースフェルトによる「コミュニケーションに二段の流れ」仮説である12。小集団内のオピニオン・リーダーの存在が、メディアの受容仕方を決定づけるとするものだ。
■「コミュニケーションの二段の流れ」仮説は、もともとはキャンペーン効果を高める、小集団リーダーの影響力による「増幅機能」が注目されたが、メディアの悪影響を問題にする流れの中で、小集団リーダーの影響力による「減殺機能」が注目されるようになった。
■いずれにせよ、こうした研究蓄積の結果、メディアの悪影響を制御しようとする場合、内容よりも、むしろ受容環境──どのような環境でメディアに接触するか──を制御することが有効であることが、学会の合意を得るに至っている。
■具体的に言えば、子供に対するメディアの悪影響を危惧する親は、メディア内容に異議申し立てをするよりも、子供がメディアを享受する受容環境──どんな人間関係にある誰と一緒にメディアを享受するか──を制御するほうが、はるかに合理的だということだ。

【宮台調査】
■メディアの悪影響に関する効果研究は、暴力的メディアに偏る傾向があり、性的メディアについての研究はあまり行われて来なかった。理由は、暴力は「悪い」ことが自明なのに対して、性については何が「悪い」のかに合意することが難しいということがある13。
■この欠を補うために、2000年の春に、大学受験産業の会員名簿から抽出した標本(大学生)に対して、性行動と性意識を問う社会調査を行い、133本の有効回答を得た14。この調査で、性的メディア接触・人間関係・性的態度の間に、興味深い相関関係が見られた。
■まず、「今までに何を通じて性の知識を得て来たか」という問いへの答えと、「恋人がいるかどうか」という問いへの答えをクロス集計した結果、【表1・図1】のような結果を得た。

   【表1】




   【図1】










■グラフの分布【図1】から一目瞭然だが、性知識を、学校の友人や家族・親族などのパーソナルな源泉から得てきたと答える者のほうが、メディアや学校の性教育などのインパーソナルな源泉から得てきたと答える者より、圧倒的に恋人のいる割合が高い(有意差あり)
■ついで、「恋人がいるかどうか」という問いへの答えと、「恋人として付き合う相手のどこを評価するか」という問いへの答えを、クロス集計した。その結果、【表2・図2】のような興味深い結果を得た。

  【表2】




  【図2】












■グラフの分布【図2】から一目瞭然だが、「恋人がいる」と答える者のほうが、「一緒にいて楽しい」という非属性的な回答をする割合が相当高い。逆に、「恋人がいない」と答える者のほうが、学歴・収入・知性・宗教・要旨など、属性的な回答をする割合が高い。
■最後に、「両親は性道徳に厳格だったかどうか」という問いに対する答えと、「今まで何人とセックスしたか」という問いに対する答えを、クロス集計した。その結果、【表3・図3】のような結果を得た。

  【表3】







  【図3】












■グラフの分布【図3】から一目瞭然であるように、「両親は性道徳に厳格だった」と答える者のほうが、「両親は性道徳に寛大だった」と答える者に比べると、セックスをする人数が多くなることが分かる。(前者平均1.74人、後者平均1.58人、有意差あり)。
■これらをまとめると以下のようになる。第一に、性的メディアへの接触頻度にかかわらず、パーソナルな人間関係から性情報を得る機会の多い者は、恋人を獲得する割合が高まる。第二に、恋人がいる者は、相手を属性(スペック)で見る傾向が小さい。
■そして第三に、親が性道徳に厳格で、性についての率直なコミュニケーションができない場合は、親が寛大で性について率直なコミュニケーションができる場合に比べて、セックスをする人数が増える傾向にある。
■これから、以下のように推論できる。親が性道徳に寛大で、性について率直なコミュニケーションができ、性情報を親から獲得しやすい場合には、総じてコミュニケーション志向が高まり(属性志向が下がり)、愛のある関係に入りやすい。
■逆に、親が性道徳に厳格で、性について率直なコミュニケーションができない場合、インパーソナルなルート──例えばメディア──から影響を受ける傾向が高まると同時に、コミュニケーション志向が下がり(属性志向が上がり)、愛のない性関係に入りやすい。
■これら宮台調査のデータは、「悪」影響かどうかは別にして、性に関するメディアの影響を論じる場合、パラメータ(外生変数)としてパーソナルな対人ネットワークに注目しない限り、十分な議論ができないということを示唆する。

【その他、暴力的メディアについての効果研究】
■結論から言えば、メディアの悪影響についての実証研究は数多くあり、報告書の結論において「悪影響あり」とするもの、「悪影響なし」とするもの、それぞれ存在する。しかし、報告書の中身に立ち入ってみると、実証されている事柄には限りがあることが分かる。
■第一に、対象がテレビ番組の暴力表現に偏っている(前述)。第二に、もともと暴力的素因をもつ子供は暴力的メディアで短期的模倣を生じやすいこと。第三に、暴力的素因はメディアよりも家庭など人間関係要因によって形成されること。第四に、暴力的メディアを頻繁に利用する子供は現に暴力を頻繁に振るっていること。
■第二の、「暴力的素因をもつ子供による暴力的メディアの短期的模倣」については、シュラムとライルとパーカー共著『子供の人生とテレビ』1961年、S.ボール『暴力とメディア』1969年、アメリカ「公衆衛生局長官の報告」1972年など、古典的なリサーチにおいて確認されている。
■第二の裏側になるが、「子供たちが一般的に暴力的メディアを模倣する」という仮説が否定されることは、カナダ下院「テレビの暴力に関する報告書」1993年、国立衛生研究所(日本)の長期的調査(1980年代)によって指摘されている。
■第三の「暴力的素因はメディアよりも人間関係で形成される」ことは、シュラムとライルとパーカー共著『子供の人生とテレビ』1961年、カナダ下院「テレビの暴力に関する報告書」1993年、において指摘されている。
■第四の「暴力的メディアに接触する子供ほど現に暴力を振るう」との相関関係については、アメリカ「公衆衛生局長官の報告」1972年、ベスロン「テレビ暴力と青少年」報告(1978年)、アメリカ心理学会の「1985年の提言」「1990年の提言」に示されている。
■この第四の相関関係は誤解されやすいが、「暴力的メディアに接触したから暴力を奮う」という因果関係は実証されてない。むしろ、もともと暴力的素因をもつがゆえに、一方で暴力的メディアに接触し、他方で実際に暴力を奮うと解釈される必要がある。
■これらの研究を一覧すると分かるように、1950年代のクラッパーが提唱した「限定効果説」における、「選択性メカニズム」(素因)と「対人ネットワーク」(人間関係)が決定的な影響を及ぼすという論点を越える事象は、全くと言っていいほど実証されていない。
■こうした事情を踏まえて、カナダ下院「テレビの暴力に関する報告書」1993年は、テレビの暴力シーンと実際の暴力行為の間に決定的な因果関係(強力効果)が実証できない以上、法的な規制は不適切であり、関係者が協力して問題に取り組むのが良いとしている。

【その他、性的メディアについての効果研究】
■暴力的メディアとは違い、性的メディアの効果研究はきわめて数が少ない。「悪影響」研究については、何を「悪」とするのかの判別が難しいとの理由を述べたが、効果研究一般について言うなら、加えて、「影響」の結果測定がセンシティブなことがある15。
■これら数少ない効果研究をとりまとめた、ジョンソン大統領下の「猥褻とポルノグラフィーについての大統領のための諮問委員会」(1966-1970年)の結論は、実証的な部分だけを挙げると以下の三点にまとめられる。
■第一に、性的メディアに繰り返し接すると性的関心が「飽和」して性欲が減少する。第二に、性的メディアに単発で接しても大部分の人は自慰行為が増えも減りもしない。第三に、デンマークの統計では性的メディアの解禁により性犯罪が減少した。
■これとは別に、スタインとカントの共著『ポルノグラフィと逸脱』1973年によれば、性犯罪者、同性愛者、性転換者、ポルノ愛好者、黒人低所得層は、白人プロテスタントに比べると、青少年期における性的メディアの接触体験が圧倒的に少なかった。
■アイゼンク『性・暴力・メディア』1978年に引用された、1974年のマンら研究によれば、結婚十年以上の中流夫婦にエロチックな映画を見せると、その晩には性行為が有意に増えるが、同じことを週一回ずつ行うと、一ヶ月間で性行為は顕著に減少した(飽和)。
■同じく、1974年のマンらの研究によれば、エロチックな映画に、むち打ち、同性愛、3Pなどが含まれていても、これら種類の性行為は模倣されなかった。このことは、メディアに描かれた性行動が真似されるとの模倣説への否定的なデータである。
■同じく、マンらの研究によれば、実験期間に性的メディアに繰り返し接触する間に、ポルノ販売に否定的だった女性たちの態度が次第に許容的になった。このことは、性的メディアへの非寛容な態度が、ある種の「不慣れ」に基づくものであることを示している。
■アイゼンク『性・暴力・メディア』1978年に引用された、1971年のハワードとライフラーの研究によれば、学生たちに毎日90分間ポルノグラフィーを見せたところ、実験期間中に顕著に興味を失っていき(飽和)、代わりにポルノ販売への許容的態度が増大した。

【性的メディアの拡がりと、性犯罪件数の逆比例】
■1980年から1990年までの十年間に、マンガ雑誌の売上げは1661億円から2840億円へとほぼ倍増し、マンガ単行本(コミックス)の売上げは、563億円から1645億円へと三倍以上に増大した。これらのマンガ雑誌や単行本に性表現が載ることは珍しくない。
■この1980年から1990までの十年間に、強姦で検挙された刑事責任年齢少年男子は984名から445名に半減以下となり、強制猥褻で検挙された刑事責任年齢少年男子も720名から538名と、四分の三以下に減少している(データは各年の『犯罪白書』による)。
■1985年にビデオレンタルが開始されたアダルトビデオであるが、私(宮台)が調査設計を主導したNHK「日本の性」プロジェクト調査によれば16、1999年の16~19歳のアダルトビデト視聴経験者の割合は72%を越える。
■1998年の刑事責任年齢少年男子(14~19歳)は約464万人だが、このうちの七割がアダルトビデオ視聴経験があるとすると約334万人に及ぶ。他方、1998年に強姦と強制猥褻で検挙された刑事責任年齢少年男子(14~19歳)は918人。
■すなわち、アダルトビデオ視聴経験のある少年の数と、性犯罪で検挙された少年の数との比率は、3500対1程度。そして、この1998年に性犯罪で検挙された少年の数918人は、1965年のピーク時と比較すれば五分の一以下、1985年からでも三分の二に減少している。

【「悪影響論」から「代理満足説」へ】
■以上のように、性的メディアが(青少年に)及ぼす「悪影響」については、何を「悪」影響と定義するのかをめぐる繰り返し指摘してきた困難もさることながら、この定義をクリアしたとしても、「悪影響」を実証することに成功した効果研究はまだない。
■それどころか、統計を見る限り、時間軸に沿ってみると、都市化と情報化が進むにつれて──同時に性的メディアの普及が進むに連れて──逆に強姦と強制猥褻は減少していく。それについては前節に挙げたデータにおいても一目瞭然である。
■このことは空間軸に沿ってみても見いだせる。先にも言及した私(宮台)が調査設計を主導したNHK「日本の性」プロジェクト調査によれば、大都市若年層17の男性75%・女性の57%にセックス経験があるのに対し、郡部若年層は男性81%・女性85%となる。
■都市化と情報化が進んだ地域に住む方が、そうでない地域に住むのに比べて、現実の性行動に及ぶ割合が少ない。このことは、性的メディアが現実の性行動を煽るとする「悪影響論」より、性的メディアが現実の性行動を代替するとする「代理満足論」に適合的だ。
■結論を言えば、性的メディアが青少年に「悪影響」を及ぼすと結論づけうる実証データはなく、逆に「飽和」をめぐる前述の調査データや各国の趨勢を見ると、性的メディアが「代理満足」を与えるがゆえに現実の性行動が抑制される可能性に注目するべきである。
■「悪影響」を及ぼすと見える場合も、厳密には、もともとの素因の存在や、メディアの影響を間接化する対人ネットワークの不在といったパラメータが影響している。また、もともとの素因は、メディアではなく、対人的コミュニケーションが醸成する可能性が高い。
■従って、性的メディアが青少年に「悪影響」を及ぼすとの理由で、性的メディアを規制することには、科学的に根拠がない。にもかかわらず性的メディアを規制するなら、第一部で述べた「法と道徳の分離」という近代法の原則に抵触しているという誹りを免れない。

【注】
1)例えば有名な三島由紀夫「宴のあと」裁判(1964年)では、名誉毀損の名の下で事実上プライバシーの侵害が争われていた。
2)実証的に問題がある青少年への悪影響の抑止を目的にするのではなく、子供に見せたくないものを見せないで済む権利をもとにしたゾーニングを目的にした立法を支持する動きもある。
3)条例レベルでは、青少年健全育成条例、青少年愛育条例などの名称で、悪影響論を下敷きにしたメディア規制を行うものが数多く存在する。
4)橋爪大三郎『性愛論』岩波書店、1995年。
5)猥褻観念が、ビクトリア朝期における神経症的な性的タブーのブームに由来するとの議論を頻繁に見かけるが、それはあくまで、法的規定としての猥褻観念の由来についてのみ言える。
6)近代国家以前にも、習俗としての猥褻観念を、法的に保護する社会は広く存在する。例えば江戸期の日本もそうであり、1790年には浮世絵師の山東京伝春画を描いたかどで、手鎖の刑に処せられている。
7)明治時代の後半に、ヨーロッパやアメリカで、フリードリヒ・クラウス著『日本人の性と習俗』が大ベストセラーになり、日本は性的な楽園だとするエキゾチックな幻想が喧伝された。ラフカディオ・ハーンやマルセル・モースが私的な書簡で、日本には性的なモラルが全くないという内容を書いて本国に送った。こうした状態では近代国家と見なされず、不平等条約改正に支障が出かねないと困った明治政府は、見かけをコントロールするべく、それまで自由だった性風俗の取り締まりに乗り出した。夜這いを弾圧し、女子には純潔教育を施し、結婚相手以外との性交は不道徳だとする、人口5%前後の武士階級を除けば伝統に反した倫理を強制した。若衆宿の解散や、性神崇拝禁止や性シンボルの焼却も行なわれた。橋爪大三郎『性愛論』岩波書店、1995年。あるいは松沢呉一『売る売らないは私が決める』ポット出版、2001年を参照せよ。
8)東ローマ帝国ビザンチン帝国)では、ビザンチン皇帝が、俗世の最高権力者(法の主催者)と、宗教の最高権力者(道徳や良心の主催者)を兼ね、聖俗二元論が定着することはなかった。こうした、法と道徳(良心)の一致を図るテオクラシー(神政政治)の伝統が、後の「東側」すなわち社会主義国家群へと繋がった。ちなみにこうした国々ではイデオロギー(良心)と無関連な法や法支配は存在しないとされた。
9)1958年に施行された日本の売春防止法は、制定運動の当事者でさえも人権保護を目的としておらず、母体保護と道徳的秩序維持とを二大立法目的としていた。前者については、経済的に困窮した婦人の保護を目的とする婦人相談所が、現実には売春婦人の更生を主要な業務とし続けていたことを考え併せる必要がある。後者については、性別非対称な第五条を巡って、これを道徳的な良き秩序──家父長制的秩序──の維持を目的とするものだとして糾弾し、売春防止法自体の撤廃を求めるフェミニストの運動がある。金住典子「性の自己決定権を確立する法制度とは」(宮台真司編『性の自己決定原論』紀伊国屋書店、1998に所収)を参照せよ。
10)宮台真司まぼろしの郊外』朝日新聞社、1997。宮台真司『自由な新世紀・不自由なあなた』メディアファクトリー、2000。その他。
11)ジョセフ・クラッパー『マス・コミュニケーションの効果』NHK放送学研究室訳、日本放送出版協会、1966年(Klapper, Joseph The effects of mass communication, Free Press, 1960)。
12)P・ラザースフェルト、E・カッツ『パーソナル・インフルエンス』培風館、1975年(P.Lazarsfeld & E.Katz Personaol Influence, 1955)
13)例えば1970年代の米国では、数多くの州法が、オーラルセックス(フェラチオやクンニリングス)を、悪しき振舞いとして禁じていた。これらの州法を「ソドミー法」と通称している。今日の日本では、オーラルセックスを悪しき振舞いと見なす成人は、ほとんどいないだろう。
14)Z会出版社から創刊される雑誌『Z館』の特集「超恋愛法」に合わせて大学生の性意識を調査した。Z会の通信添削受講者名簿から300人を無作為抽出して質問紙を発送したのが2000年6月17日。締切の同年7月30日までに戻ってきたのが133人(回収率44.3%)。結果は『Z館』創刊号(2000年9月)に発表した。
15)社会調査技法の教科書的なルールに従えば、体位、オーラルセックスの経験、サドマゾプレイの経験、乱交の経験、スワッピングの経験などの、性的にプライベートな行為についての質問は「センシティブな質問」に分類される。その意味は、プライバシーを侵害する恐れがあると同時に、これらの質問への答えはデータとして信用できないとされるということである。
16)NHK「日本の性」プロジェクト編『データブックNHK日本人の性行動・性意識』NHK出版、2002年。
17)大都市若年層とは、政令指定都市に幼少期から住む16歳から39歳まで。郡部若年層とは、町村に幼少期から住む16歳から39歳まで。